カント「判断力批判」を読んで ( ver.88 )〈神の偏在〉

序文 

[判断力は快・不快の感情にアプリオリに規則を与えるか。]

〈超感性的なものに自然物を関係づける〉

「しかし自然の論理的判定に関して言えば、経験は諸物についてある合法則性を提示するが、感性的なものについての普遍的な悟性概念ではこの合法則性をもはや理解ないし説明できない場合があり、また判断力は、認識不能なある超感性的なものに自然物を関係づける原理を自分自身から取り出すことができるのであって、この原理をたんに自分自身に関してだけ、自然の認識のために使用しなければならない場合がある。岩波書店 カント全集8 12頁」

 超感性的ものと自然を結びつける、この原理は日本人にとってはなじみ深い。


序論

Ⅰ 哲学の区分について

[理論哲学(感性的)と実践哲学(超感性的)]

〈超感性的原理〉

「すなわち、これらの指令は、たんにあれこれの意図における指令や規則ではなくて、あらかじめ目的や意図に関連しない法則である、という理由によるのであり、またそうした場合に限られる。18頁」

 実践的指令は何かに役立つから実践的というのではまったくない。それは、超感性的原理に基づくのだ。


Ⅱ 哲学一般の領域について

[自然概念の領域(感性的)と自由概念の領域(超感性的)。見渡しがたい裂け目]

〈自然のうちでの自由の諸法則〉

「すなわち、自由概念はその諸法則によって課せられた目的を感性界のうちに実現するべきであり、したがって自然もまた、自然の形式の合法則性が少なくとも自然のうちで自由の諸法則にしたがって実現されるべき諸目的の可能性と合致しうるというように、考えられことができなければならない。21頁」

 自然界にはわれわれの身体も含まれる。だから、自由と言っても、そこには必ず制約がある。例えば、空を自由の飛ぶとか。空は飛べないということも、自由の諸法則にしたがっているまでだ。


Ⅲ哲学の二部門を一つの全体へと結合する手段としての判断力の批判について

[認識能力、快・不快の感情、欲求能力。悟性、判断力、理性]

〈空しい願望〉

「しかし、なぜわれわれの本性のうちに、空しいことを意識している欲求への性癖がおかれているのであろうか。これは、一つの人間学的=目的論的な問題である。もしもわれわれは、われわれの能力がある客観を生み出すために十分であることを確信するまでは力を使用するよう規定されないとすれば、われわれの力の大部分はいつまでも利用されずにおかれるようになると思われる。というのも、われわれは通例、自分の能力を試すことによってのみ、はじめて自分の諸力を知るようになるからである。それゆえ、空しい願望がこのように裏切られることは、われわれの本性における慈悲深い配慮から生じた結果に過ぎない。25頁」

 空しいとわかっていても、やめるわけにはいかない。その時、心は本当に実現を確信しているだろうか。そうではない。それは本性がそうさせるのだ、とカントは言う。人は悲しい生き物か。スピノザなら異を唱えるだろう。いずれにしても、裏切られたあと、どう思うかが大事だ。


Ⅳアプリオリに立法的な能力としての判断力について

[判断力は特殊的なものを普遍的なものに含まれると考える能力。特殊的なものに普遍的なものが与えられていれば判断力は規定的。特殊的なものだけであれば反省的判断力。]

〈判断力は自分自身に対して立法行為を行う〉

「それはなくて、反省的判断力というこの能力は、このことによって自分自身にだけ法則を与えるのであって、自然に対して法則を与えるのではないのである。28頁」

 悟性や理性はそれぞれ、現象や物自体に対して立法的な能力を持つが、反省的判断力は自分自身に対して立法行為を行う。なぜなら、反省的判断力には普遍的なものが与えられていないからだ。

〈目的〉

「ところで、ある客観についての概念は、その概念が同時にこの客観の現実性の根拠を含んでいるかぎり、目的と呼ばれ、また諸目的にしたがってのみ可能であるような諸物のそうした性状とある物との合致は、これら諸物の形式の合目的性と呼ばれる。28頁」

 目的と合目的性の定義。現実性の意味はここでは明かされていない。


Ⅴ自然の形式的合目的性の原理は判断力の超越論的原理である

[超越論的原理(諸物体を認識する原理)。形而上学的原理(外的原因により物体は変化する)。判断力の諸格率(節約の法則、連続の法則、原理は必要でなければ増やしてはならない)]

 判断力のある人とない人の違いはどこか。まず、ひとは判断する基本的な原理のようなもとを自然観察から得ている。すなわち、自然は最短距離をとる、自然は飛躍的な変化はしない、自然の諸法則は少数の原理で統一されている、などである。実は、基本的な原理(合目的性)そのものがある訳ではなくて、そのような原理を自然に仮定したことで、われわれは判断力が得られるのである。だから、そうした仮定をよしとして、自然観察に没頭すれば判断力はついてくるだろう。

[自然の合目的性の原理、実践的合目的性の原理]

〈経験が一つの全体となるために〉

「また、これらの経験的法則に関してわれわれは、経験的諸法則にしたがう自然統一と、経験の統一の(経験的諸法則にしたがう体系としての)可能性とを偶然的であると判定する。しかしこうした統一は、それでも必然的に前提され想定されなければならず、そうでなければ、経験が一つの全体となるために経験的諸認識があまねく連関することは生じないだろうからである。32頁」

 特殊経験だけでは普遍性はない。では、どうして経験だけで判断できるのか。それは、経験には多様ものを統一する法則性があるからだ。


〈自己自律〉

「この原理によって判断力は、自然に対して(自律 Autonomie )ではなく、自分自身に対して(自己自律 Heautonomie )自然を反省するために一つの法則を指定する。35頁」

 普遍性を自然法則に求めることはよくあるだろう。では自分に対してはどうか。自分はどんなものにも囚われないという自由さが普遍性を産むのかもしれない。


Ⅵ 快の感情と自然の合目的性の概念との結合について

[意図の達成と快の感情]

〈多様性と異種性から偶然を〉

「しかしながら、自然の特殊的諸法則にしたがう自然の秩序は、われわれの把握力を凌駕するような、すくなくとも可能なあらゆる多様性と異種性とをもつにもかかわらず、それでもわれわれの把握力に現実に適合している。このことは、われわれの洞察しうるかぎり、偶然的である。37頁」

 偶然の出会いは感動をよぶ。思ってもいない、棚から牡丹餅は、とても快い。ならば、偶然なもののなかに分け入ろう。一見、見慣れたものにも多様性と異種性を見出して、偶然性を開発しよう。それが、反復から得られる差異だ。


〈経験的ないっそう高次な諸法則〉

「それは、自然の異質な諸法則を、依然としてやはり経験的ないっそう高次な諸法則のもとにできるかぎりもたらす研究である。この研究の目的は、これが成功するば、これらの経験的法則とわれわれの認識能力との一致について、つまりわれわれがたんに偶然的とみなす一致について快を感じる。38頁」

 まだ、経験がないままに、憧れているだけの想いと、現実に経験によって得られた法則が一致した時、快い感情に包まれる。


Ⅶ自然の合目的性の美感的表象について 

[美感的判断力(趣味判断、崇高なもの)]

〈水晶のなかで動く水滴〉

「ある個別的な経験判断、たとえば、水晶のなかで動く水滴を知覚するひとの個別的経験判断は、他のあらゆるひとにもそれが同様に見出されなければならない、と要求するのは当然である。43頁」 

 自分が山の頂きに立って感じた快感はみんなにも分かち合いたい。その要求が満たされるには? 概念ではなく形式が条件となる。


Ⅷ自然の合目的性の論理的表象について

[美感的判断力(主観的、快ないし不快)。目的論的判断力(客観的、悟性と理性)]

〈描出〉

「ある対象の概念が与えられている場合、認識のためにこの概念を使用する際の判断力の仕事は、描出にある。すなわち、ある概念に対応する直観を添えることにある。45頁」

 まだ、目にしたことがなくて、本や友人から聞いて憧れる。そうして、ある概念を持つ。それに直観を添えるのが判断力による描出だ。


〈自然の形式的合目的性の原理がなければ、悟性は自然に対する術を知らないであろう〉

「判断力批判のうちには、美感的判断力を含む部門が本質的部門として属する。なぜなら、美感的判断力だけが、判断力が自然に対するその反省の根底にまったくアプリオリに置くある原理を含むからである。すなわち、この原理とは、われわれの認識能力に対して、自然の特殊的(経験的)諸法則にしたがう自然の形式的合目的性の原理であり、この合目的性がなければ、悟性は自然に対する術を知らないであろう。46頁」

 美しいとの判断はある原理に基づく。すなわち、それは自然の形式的合目的性の原理のことである。この自然の形式的合目的性の原理とは、自然の途方もなく多様のうちで概念を調達するための原理である。この原理がまったくの偶然性ならば、概念は得られないであろう。だから、合目的性の原理と呼ぶ。こうして美感的判断力にて得られた概念と、そこでの反省という原理を今度は悟性が使用することになるのだ。


Ⅸ 判断力による悟性の立法と理性の立法との連結について

[諸現象(自然)と超感性的なもの(自由概念)との大きな裂け目]

〈自然と自由の区別〉

「抵抗や促進は、自然と自由との間に存在するのではなく、現象としての自然と感性界における諸現象としての自由の諸結果との間に存在する。49頁」

 自然と自由との区別はあるが、その区別は現象とそれを感じ取ったある種の経験のなかで、抵抗や促進の関係を結ぶ。


第一編 美感的判断力の分析論

第一章 美しいものの分析論

質に関する趣味判断の第一の契機

[趣味とは美しいものを判定する能力]


第一節 趣味判断は美感的である

〈美感的判断〉

「ところが反対に、与えられた諸表象がまったく合理的であったとしても、しかしある判断のうちで〔諸表象が〕もっぱら主観(主観の感情)に関係づけられならば、この判断は、そのかぎり、つねに美感的である。56頁」

 主観に関係づけられない判断など、ありえるか? 感情を無にして判断する。その時はできたとしても、得られた判断は瞬時に感情を呼び覚まし、関係づけられてしまう。


第二節 趣味判断を規定する満足はあらゆる関心に関わらない

〈眼前の宮殿〉

「もしも誰かが、私に向かって、私が眼前にみる宮殿を美しいと思うか、と尋ねるとする。この場合、私はおそらく、ただまじまじと見とれるためだけに造られたような物を好まない、と答えるであろう。57頁」

 どうしても、自分と関連づけて、美の判断をしてしまうことはないか。手に入らないなら、美人でも、それなりと嘯く。


第三節 快適なものについての満足は関心と結合している

〈草原の緑色〉

「草原の緑色は、感官の対象の知覚としての客観的感覚に属する。しかしこの緑色の快適さは主観的感覚に属し、これによってはどのような対象も表象されない。すなわち、〔この緑色の快適さは〕感情に属し、対象はこの感情によって満足(これは対象の認識ではない)の客観と見なされるのである。59−60頁」

 感情は何を表し得るのか。それは心象風景だろう。そうして、対象は何倍も膨らむ。もはや、それは認識ではあり得ない。が、心だけだろうか。


第四節 善いものについての満足は関心と結合している

〈享受と共感〉

「その際、ひとは、同様に享受だけをめざす他のすべてのひとに対して、そのための手段として最大の援助を行い、しかもそのひとが共感によってすべての楽しみをともに享受するという理由からであっても、そうする(その人の現存がそれ自身である価値をもつと理性が納得)ことはできないであろう。62−63頁」

 現存の価値はどのようにして得られるか。それは共感でもないという。享受が前提の共感は、真の共感ではないと思う。


第五節 種別的に異なる三種類の満足の比較

[快適(楽しませる、感官の関心、傾向性)・美(満足を与える、無関心で自由、恩恵)・善い(尊重される、理性の関心、尊敬)]

〈空腹は最上の料理人〉

「すなわち、空腹は最上の料理人であり、旺盛な食欲のあるひとたちには、食べられさえすれば、すべてが美味しく味わうことができ、したがってこうした満足は趣味による選択を証明するものではない、と。必要が充たされたときにはじめて、多くのひとのうちで趣味をもっているか否かが区別される。65頁」

 不要不急なことの制限を強いられとき、美は消える。お預けを食らえば、ますます性癖が顔を出す。


趣味判断の第二の契機、すなわち量に関する契機

第六節 美しいものは、概念をもたず普遍的満足の客観として表象されるものである

〈自由のもう一つの意味〉

「というのも、この(美しいものに対する)満足は主観のなんらかの傾向性に(なにか別の熟慮された関心にも)基づくのではなく、判断者は対象に寄せる満足に関して自分がまったく自由であると感じているから、判断者は満足の諸根拠として、自分の主観だけが依存しているような個人的諸条件を見出すことはできないからである。」

 自由であるならば、依存条件はない。つまり、その人特有な条件はないから、すべて同じ。普遍的である。無関心は個性を消し、普遍的となる。みんなが同じ顔。


第七節 上述の徴表による美しいものと快適なものおよび善いものとの比較

〈趣味の良さ〉

「もしも自分の趣味の良さを幾分自負するひとが、「この対象(われわれが眼前に見る建築物、あるひとが身につけている衣服、われわれが聴いている奏楽、批評を受けるために提出された詩)は私にとって美しい」と言って、自分の正しさを弁明しようと考えたとすれば(〔快適の場合とは〕まったく逆に)、笑うべきであろう。68頁」

 趣味のよさを自分だけの秘密にしたがり、こだわりを持つ人も多い。でも、それを否定されると怒ってしまう。そして、自分との趣味の一致を要求する。


第八節 満足の普遍性は趣味判断ではたんに主観的として表象される

[共通妥当性:各主観にとっての快・不快の感情に対する表象の関係の妥当性を示す量を含む]

〈私が眺めるバラ〉

「たとえば、私が眺めるバラを趣味判断によって私は、美しいと言明する。これに反して、多くの個別的表象の比較によって判断、すなわち「バラ一般は美しい」という判断は、もはやたんに美感的判断として言い表されるのではなく、ある美感的判断に基づいた論理的判断として言い表されている。72頁」

 趣味判断はいつでも自分とある個別との関係のなかでなされる。しかし、その判断は共通妥当性をもって、普遍的でもある。

〈美のすべての表象は失われてしまう〉

「客観がたんに諸概念にしたがって判定されるならば、美のすべての表象は失われてしまう。それゆえ、あるひとがそれにしたがってあるものを美しいと承認する強要されるような規則もまた、存在することはできない。ある衣服、ある家屋、ある花が美しいかどうかについて、自分の判断は、どのような諸根拠ないし諸原則によっても押しつけることはない。73頁」

 概念化してしまえば、もうそこには美はない。それは善いことになってしまう。


第九節 趣味判断では快の感情が対象の判定に先行するか、それとも対象の判定が快に先行するかという問いの探求

[快が先行し、それが対象の表象に認められることは矛盾。快は個人から生まれるから、これが表象となるわけはない。さらに、この快は表象が産むという一面もある。広い意味での心の状態の伝達可能性が快の原因となる。この心と心の状態の伝達可能性は認識のことではなかろうか。しかし、前節にあったように、快は概念からは生まれない。ならば、概念のない認識とはなんだろうか。それは構想力と悟性との戯れだ。]

〈認識能力の調和〉

「この表象によって活動させられる認識諸力〔構想力と悟性〕は、その際自由な戯れのうちにある。なぜなら、規定された概念は、認識諸力を特殊な認識規則に制限することはないからである。それゆえ、この表象における心の状態は、認識一般のために、与えられた表象における表象諸力の自由な戯れの感情という心の状態でなければならない。75頁」

「すなわち、われわれは趣味判断では認識能力間相互の主観的な合致をどのような仕方で意識するようになるか。76−77頁」

 構想力と悟性の合致は概念ではなく、感覚によって知られる。それは戯れが生み出す調和の感覚だ。


第一〇節 合目的性一般について

〈快と呼ばれるもの、不快と呼ばれるもの〉

「主観を同じ状態に保持しようとするような、主観の状態に関する表象の原因性の意識は、ここでは一般に快と呼ばれるものを示すことができる。これに反して不快とは、その諸表象の状態をこれらの表象自身の反対のものに規定する(これらの表象を阻止ないし除去する)根拠を含むような表象である。78−79頁」

 快を主観に限定しているのがカント。身体はどこへ行ったのか。


第一一節 趣味判断は対象の(ないし対象の表象の仕方の)合目的性の形式以外にはなにも根底にもたない

[すべてのことは満足のためであるならば、なにが快くさせるものかについて常に関心をもつだろう。ならば、趣味判断に主観的目的はない。]


第一二節 趣味判断はアプリオリな諸根拠に基づく

[美感的快は原因性を自分のうちにもつ。]

〈美と自分自身〉

「われわれは、美しいものを観察する際しばしばとどまる。なぜなら、この観察は自分自身を強め再生産するからである。82頁」

 山の花を見つけると、まずその名を花や葉の形から思い浮かべ、それから、花を咲かせた大いなる大自然の思いも及ばない意志を感じ、最後には、自分自身の中からエネルギーが湧き出るだろう。


第一三節 純粋な趣味判断は魅力や感動には依存しない

〈魅力と感動の混入〉

「趣味は魅力と感動の混入を満足のために必要とする場合、それどころか、こうした混入を趣味の賛同の尺度とする場合、趣味はつねにまだ未開である。」

 偏りのない判断のために心がけること、それは魅力と感動を避けること。例えば、妻を娶るとき、顔やスタイルに目が奪われたり、何かの目的のために打算的になれば、失敗する。


第一四節 実例による説明

〈デッサンや構図〉

「戯れの場合には、諸形態の戯れ(空間における、身ぶりと舞踏)であるか、それとも諸感覚のたんなる戯れ(時間における)であるかのいずれかである。色の魅力や楽器の快適な音の魅力もまた付加されうるが、諸形態の戯れでは、線描が純粋な趣味判断の本来の対象を形づくり、諸感覚の戯れでは構成が純粋な趣味判断の本来の対象を形づくる。86頁」

 戯れは空間と時間を場として形式となる。構成力と悟性が概念とはならずに、戯れる。そうしてできたのが、デッサンや構図が美をもたらす。


第一五節 趣味判断は完全性の概念にはまったく依存しない

[客観的合目的性は有用性か完全性をいう]

〈芝生に出会う〉

「たとえば、私は、森の中で樹木に囲まれている芝生に出会い、また私は、その際一つの目的を表象するのでなければ、すなわちこの芝生はおそらく村人の舞踏に利用されるであろうという目的を表象するのでなければ、たんなる形式によるのでは完全性について少しの概念も与えられることはないのである。」

 完全性は内的な客観的合目的性である。これは明確な目的が見えてはじめて実現される。つまり、村人の舞踏のための芝生はそれで概念を形成している。だから、それは悟性の対象であって、戯れの対象ではない。しかし、単なる芝生ならば、それは素描されるだけだ。


第一六節 ある規定された概念の条件のもとで対象を美しいと言明する趣味判断は純粋ではない

[純粋な趣味判断は形式的判断で経験による快適さによらない]

〈線描や葉形装飾〉

「ギリシャ風の線描、縁取りや壁紙に取り付けられる葉形装飾などは、それだけではなにも意味していない。すなわち、これらのものは、なにも表象せず、ある規定された概念のもとでの客観を表象せず、〔それゆえ〕自由である。」

 線描や葉形装飾は何にでも通用する。この自然美はいにしえからわれわれを楽しませる。


第一七節 美の理想について

[美は、ある対象の合目的性がある目的の表象をもたず対象について知覚されるかぎり、この対象の合目的性の形式である。]

〈互いに重ねあわせる〉

「あるひとは、これまでに千人の成人男性を見てきている。ところでそのひとが、比較という仕方で評価されるべき規範的な大きさについて判断しようとすれば、(私の意見では)構想力は、多数の形像(おそらくその千というすべての形像)を互いに重ねあわせるのである。またこの場合に、視覚的描出からの類比を適応することが私に許されるとすれば、大多数の形像が合一する空間の中で、そしてその場所がもっとも濃く塗られた色で彩られた輪郭の内部で平均の大きさが見分けられる。97頁」

 こうして美感的規範理念が作られる。平均の美か。楽しくなさそうだが。


対象についての満足の様相に関する趣味判断の第四の契機

第一八節 趣味判断の様相とはなにか

〈美しさにすべてのひとが満足を感じるのはどうしてか〉

「すなわち、それは、私によって美しいと呼ばれる対象についてのこの満足をあらゆるひとが感じるであろうということが、アプリオリに認識されうる理論的な客観的必然性ではない。101頁」

 美しさにすべてのひとが満足を感じるのはどうしてか。それは範例的と呼ばれるものである。


第一九節 われわれが趣味判断に付与する主観的必然性は条件づけられている

[ある根拠が美的判断の賛意を条件づける]


第二〇節 趣味判断が主張する必然性の条件は共通感覚の理念である

〈認識諸力の自由な戯れ〉

「それゆえ、ある共通感覚が存在する(しかしこの共通感覚によってわれわれは、外的感官を理解しているのではなく、われわれの認識諸力の自由な戯れから生ずる結果を理解している)という前提のもとでのみ、繰り返すが、こうした共通感覚という前提のもとでのみ、趣味判断は下されることができるのである。103頁」

 戯れは満足を呼ぶ。それは戯れという行為か、それとも戯れの結果か。


第二一節 共通感覚は根拠をもって前提されることができるかどうか

[認識は主観的であってはならず、そうであってしまえば懐疑論に堕してしまう。だから、認識は客観的であり、伝達可能である。その伝達には心の状態(認識能力の調和)もいっしょに伝わる。この調和の伝達の根拠が共通感覚である。]


第二二節 趣味判断のうちで考えられる普遍的賛同の必然性は、共通感覚という前提のもとで客観的と表象される主観的必然性である

[われわれがあるものを美しいと言明するすべての判断のうちで、われわれはひとに異なる意見をもつことを許さない。それにもかかわらず、われわれの判断は、諸概念に基づくのではなく、われわれの感情にだけ基づいている]

〈趣味判断は根源的能力か理性の要求か〉

「趣味は一つの根源的で自然な能力であるのか。それとも趣味は、さらに獲得されるべき人為的な能力の理念にすぎず、したがって普遍的賛同の要求をともなう趣味判断は、実際は感官のあり方のこうした一致を生み出すべき理性の要求にすぎず、また、当為は、すなわちあらゆるひとの感情が各人の特殊な感情と合流することの客観的必然性は、この点で一致を生じうる可能性を意味するにすぎず、趣味判断は、その原理の適応についての一実例を提示するにすぎないのか。105−106頁」

 共通の感情、それを想定することは、人の行動の不可思議さを探求する上で興味深い。


分析論第一章に対する一般的注解

〈美しい眺望〉

「諸対象の美しい眺望では、構想力がこの眺望の視野のうちで把捉しているものに定着しているというよりも、むしろ構想力がその際創作する機会をもつものに、すなわち目を打つ多様性によって心がたえずめざまされながら、心が楽しむ本来の空想に定着している。110−111頁」

 美しい眺望の先にはもうリアルな対象像はないのかもしれない。そのリアルさは満足を妨げる。心の中ではもう創作が始まっている。しかし、美は把捉のうちにあるようだ。つまり、悟性をその場合でも楽しませなければならない。


第二章 崇高なものの分析論

第二三節 美しいものの判定能力から崇高なものの判定能力への移行

[美しいものは対象の形式に関わる(規定されていない悟性概念の描出)。崇高なものは形式のない対象でも見出される(規定されていない理性概念の描出)]

〈暴風雨に逆巻く広大な大洋〉

「たとえば、暴風雨に逆巻く広大な大洋は、崇高と呼ばれることはできない。その眺めは物凄いのである。そして、心はこうした眺めの直観によってそれ自身崇高な感情へと規定されるべきであるとすれば、すでに多くの理念によって心が満たされていなければならない。それというのも、心は感性を離れて、いっそう高次の合目的性を含む諸理念に携わるよう刺激されるからである。114頁」

 たしかに、山懐に抱かれ森のなかに佇むと、美しいというよりは崇高なものを感ずることはある。その森の魂のようなものに触れた時だ。


第二四節 崇高の感情の探求の区分について

[認識能力の数学的調和、欲求能力の力学的調和]


A 数学的に崇高なものについて

第二五節 崇高という名称の説明

〈三本の指〉

「ところでしかし、あるものが大きい、小さい、あるいは中くらいであるという表現は、なにを意味しようとするのであろうか。こうした表現によって示されるものは、純粋悟性概念ではない。増して感官直観ではない。同様に理性概念でもない。なぜなら、この表現によって示されるものは、認識の原理をまったくともなっていないからである。それゆえ、それは判断力の概念でなければならないか、それともこうした概念から由来しており、また判断力と関連した表象の主観的合目的性を根底に置いていなければならない。117頁」

 あるものが大きい、小さい、あるいは中くらいである、というと、プラトンの国家のなかで「ここに三本の指があるとするー小指と、その次の指と、中指だ・・・それらの指の大小ということを、はたして視覚はじゅうぶんに見るだろうか? 523C」が連想される。同じものが大きくてまた小さいということを感覚は魂に報告する。感覚は知性に助けを求めるとプラトンは言う。実は、結局のところ、知性(悟性)でも答えられないだろう。それは、判断力に答えてもらうしかないのだ。

〈普遍的賛同〉

「しかし、たとえ比較の尺度はたんに主観的であるとしても、この判断は、それにもかかわらず普遍的賛同を要求する。118頁」

 構想力は拡張して、どこまでも限りない。そう、無限に前進する。そしてそれはある心の状態を伴うだろう。もはや、自分だけに停めてはおけない。


第二六節 崇高なものの理念のために必要な自然諸物の量評価について

[構想力の二つの働き、把捉と統括。把捉は無限に進むことができる。統括は把捉が進むほど困難となる。]

〈ピラミッド〉

「サバァリは、エジプトについての報告のなかで、ピラミッドの大きさから申し分のない感動を受けるためには、ピラミッドにあまり近づいてもならず、同様にあまり遠ざかりすぎてもならない、とのべている。123頁」

 離れすぎると一つ一つの石が見えなくて、把捉できない。近づきすぎると把捉するための眼球運動に時間が取られて、統括する前に最初のことが忘れてしまう(全体像がつかめない)。それは、他人を理解する時にも言えそうだ。


第二七節 崇高なものの判定における満足の質について

〈超感性的使命〉

「それゆえ、崇高な感情は、美感的量評価では構想力が理性による評価に不適合であることから生じる不快の感情であり、また、その際同時に呼び起こされた快でもある。この快は、理性諸理念へと向かう努力がそれでもわれわれに対して法則であるかぎり、最大の感性的能力(構想力)が不適合であるという、まさにこうした判断が、理性諸理念との合致することから生じる快である。すなわち、諸感官の対象としての自然がわれわれに対して大きいものを含むすべてのものを理性の諸理念と比較して小さいと評価することは、われわれに対して法則(理性の)であり、われわれの使命である。130頁」

 構想力と理性との不適合。そこで目指すのは理性の諸理念。だから快となる。それは使命でもある。構想力はあくまで理性のご機嫌取りか。しかし、構想力がなかったら、この不適合も起こらなかったわけで、ならば、感性的自然と超感性的なものと合致も生まれなった。構想力が実践理性での最高善、すなわち、感性的自然における幸福と超感性的自然における徳との一致を支えているのだ。



B 自然の力学的に崇高なものについて

第二八節 力としての自然について

〈構想力が高揚される〉

「それゆえ、自然がここで崇高と呼ばれるのは、自然が構想力を高揚させ、自然にすら優る心の使命に固有な崇高性を心が感じられるようにできる事例を描出させるという、たんにこの理由によるのである。」

 構想力が高揚されると、もはや測り知れないと諦めるかにみえる時、理性は独自な物差しを見出す。それは別種の自己保存であり、卓越性である。


第二九節 自然の崇高なものについての判断の様相について

〈認識諸能力の開化〉

「心は崇高の感情と調和するためには、諸理念に対する心の感受性が必要である。というのも、自然がこれらの理性に不適合であることのうちにこそ、したがって、これらの理念の前提と、自然をこれらの理念のための図式として扱う構想力という前提とのもとでのみ、感性に対して威嚇的なものが成り立つのであり、それでもこの威嚇的なものは、同時に魅力的でもあるからである。なぜなら、この威嚇的なものは、理性が感性にふるう威力であって、感性を理性本来の領域(実践的領域)に適合するよう拡張して、感性に対して深淵である無限なものを感性に望見させるためだかである。実際、人倫的諸理念が発達していなければ、開化によって準備されたわれわれが崇高と呼ぶものは、未開の人間にはたんに威嚇的にみえるだけであろう。」

 感性を威嚇するばかりではいけない。それでは、あらゆるひとの判断の一致を求めることはできない。それには開化が必要となる。


美感的反省的判断の解明に対する一般的注解

〈ユダヤ人の律法書〉

「崇高の感情は、感性的なものに関してはまったく消極的なこうした抽象的な抽出の仕方によって失われてしまうのではないかと、心配する必要はない。というのも、たとえ構想力は感性的なものを超えて自分が頼りにできるものはなにも見出さないとしても、それでも構想力は、まさに自分の制限がこのように除去されることによって、自分が限界づけられていないと感じるからである。それゆえ、「感性的なものからの」あの分離は無限なものの抽出であり、この抽出は、まさにこの理由によってたんに消極的描出以外ではけっしてありえないが、しかしそれでも、この消極的描出は魂を拡張するのである。153−154頁」 

 魂の拡張とは比喩的で、受け取り方は様々だが、カントが意図した主観的なものの普遍性を意味しているのだろう。ポイントは構成力の制限の除去だろう。では通常は何によって構成力は制限されているのだろうか。すぐ思い浮かぶのは時間の制限だ。時間の制限がなくなれば、数える手間もなくなり、並べ直すこともなくなる。すると、なんでもやり放題になりがちだ。それでは狂信になってしまう。そうならないためには除去の仕方が鍵を握るだろう。それは、「どのような形像も作ってはならない」と説くユダヤ人の律法書だ。つまり、除去に諸感官への逆行を含めてはならない。


〈人倫性の理念〉

「事実はまさにその逆である。というのも、諸感官がもはやなにも眼前に認めず、それにもかかわらずまぎれもなく消しがたい人倫性の理念が残っている場合には、これらの理念の無力に対する恐怖から、これらの理念のために形像や子供じみた道具立てに助力を求めるよりも、むしろ限界をもたない構成力の活力を抑制して、この活力が熱狂にまで高まらないようにすることが必要であろうからである。

 諸感官に影響しないような道徳は生気のないものだけど、心を揺さぶらないわけではない。何故か? それは無力の力だ。頼るべく武器がなくなって、恐怖を感じたら、まずは自分を取り戻すために、心を鎮めよう。あなたには人倫性の理念が残っているよ(無力だけどね)。


純粋な美感的判断の演繹

第三〇節 自然の対象についての美感的判断の演繹は、われわれが自然のうちで崇高と呼ぶものに向けてはならず、美しいものだけ向けられなければならない

[美観的判断は、あらゆる主観に対する普遍的妥当を要求する]

〈大洋の底〉

「したがって、自然の美しいものに関しても、自然の諸形式のこうした合目的性の原因に関わるさまざまな問いを提出することができる。たとえば、自然はいたるところで、人間の眼がきわめて稀にしか届かない(しかし、美は人間の眼に対してのみ合目的的である)大洋の底ですら、なぜあのように惜しみなく美を広くまき散らすのかをどのように説明しようとするのであろうか、などの問いである。161頁」

 合目的性と言う時、何を言おうとしているだろう。何かに合致する性質と、ひとまず理解してみよう。では、合目的性の原因はなんだろう。その原因によって、ものは何かに合致する。ならばその原因さえあれば、大洋の底でも、そういう性質は見つかるのかと、問うてみよう。きっと、その何かは分からずとも、ここにもあると眼を見張るだろう。


第三一節 趣味判断の演繹の方法について

〈趣味判断の二重の特有性〉

「すなわち第一に、それはアプリオリな普遍的妥当性をもち、しかも諸概念にしたがう論理的普遍性ではなく、個別的判断の普遍性をもつ。第二に、それは必然性(必然性はつねにアプリオリな諸根拠に基づかなければならない)をもつ。しかしそれでも、この必然性は、趣味判断があらゆるひとにあえて要求する賛同が、その表象によって強制されうるアプリオリな証明根拠には依存しないのである。」

 経験に伴う判断の普遍性は分かり易いだろう。他人の経験から、同じように満足したり、不満を覚えたりすることは良くあるだろう。では、趣味判断を個人が行う必然性はどうか。必然性には必ず、なにがしかの根拠はある。根拠がなければ必然性とは呼ばないだろう。問題はその根拠だ。趣味判断は普遍性をもつから、あらゆるひとに賛同を求める。そのいわば流行の根拠と必然性の根拠とは異なるとカントは言う。


第三二節 趣味判断の第一の特有性

〈美の源泉〉

「歴史上みられるこの実例は、人倫性に固有の根源的な(アプリオリな)理念に基づく徳の自律を不要にさせるのでもなく、この自律を模倣のメカニズムへと変化させるのでもない。模範的な創始者の作品は他のひとびとに及ぼしうるあらゆる影響を表わす正しい表現は、先例に関わる継承であって模倣ではない。これは、創始者自身が汲み取ったのと同じ源泉から汲み取り、自身の先行者からその際振舞い方だけを学びとるのと同じである。167頁」

 美の源泉は模倣されるのでは継承されるべきである。得てして、人は真似をしたがる。そして、人に真似をさせたがるものだ。


第三三節 趣味判断の第二の特有性

〈個々のチューリップ〉

「しかし、私が与えられた個々のチューリップを美しいと認める判断、すなわちこのチューリップについての私の満足を普遍妥当性であると認める判断は、ただ趣味判断だけである。しかし、趣味判断のこの特有性は、この判断がたんに主観的妥当性をもつにすぎないにもかかわらず、もしもこの判断が認識根拠に基づき、証明によって強制させうるような客観的判断でありさえすれば、この判断がすべての主観に対してつねにおこりうるような要求をするにある。」

 趣味は自分だけのものとしておけばいいのに、なぜか、それをウェブ上にアップしたがるのが人情だ。私もしかり。


第三四節 趣味の客観的原理は可能ではない

〈悟性と構成力との一致ないし不一致〉

「すなわち趣味の批判は、与えられた表象における悟性と構成力との相互的関係を(先行する感覚や概念と関係せず)、したがって両者の一致ないし不一致を諸規則のもとにもたらし、両者をこれらの条件に関して規定する技術ないし学である。170頁」

 一致すれば快を産み、不一致であれば不快となる。それはトライアンドエラーであるけれど、それを一般化して、それを推測する力を見極めるのが趣味判断の学であろう。


第三五節 趣味の原理は判断力一般の主観的原理である

〈戯れる認識諸能力〉

「すなわち、構想力が概念をもたず図式機能を営むというまさにこの点に構想力の自由は存するのであるから、趣味判断は、自由のうちにある構想力と、合法則性をともなう悟性とが相互に活気づけることのたんなる感覚に基づかなければならず、それゆえある感情に基づかなければならない。この感情は、自由に戯れる認識諸能力の促進のために表象(これによってある対象が与えられる)の合目的性にしたがって、対象を判定させる感情である。171−172頁」 

 趣味判断を促す感情とはどんなものだろうか。そのヒントが戯れにある。ゲーム感覚。悟性と構成力との一致は確率の問題。自由と法則との単なる偶然。だから、一致した時は快い。まさに趣味の感情だ。


第三六節 趣味判断の演繹の課題について

〈超越論的哲学の普遍的課題〉

「この判断は、たんなる感覚判断ではなく、この満足を必然的としてあらゆるひとにあえて要求する形式的な反省判断であるとすれば、この判断の根底には、アプリオリな原理としてあるものが存在しなければならない。173頁」

 自分の趣味を人にも共感してもらいたいという要求。それは経験によらない、アプリオリな原理としてのあるものの存在を必要とする。あらゆるひととあるものの存在を結ぶ関係。それはたぶん合目的性という関係だろう。


第三七節 趣味判断のうちで対象について本来アプリオリに主張されるのはなにか

〈快の普遍妥当性〉

「それゆえ、趣味判断のうちで判断力に対する普遍的規則として、あらゆるひとに妥当するものとしてアプリオリに表象されるのは、快ではなく、この快の普遍妥当性である。この普遍妥当性は、心のうちである対象のたんなる判定と結合されたものとして知覚されるのである。175頁」

 海底にもある美の原型、それは快の普遍妥当性を主張する証かもしれない。


第三八節 趣味判断の演繹

〈合目的的諸形式〉

「しかし、自然を趣味の諸対象の総括としてアプリオリに規定することはどのようにして可能であるかが問われるとすれば、この課題は目的論と関係する。なぜなら、われわれの判断力に対して合目的的諸形式を提示することは、自然の概念に本質的に付随するような自然の目的とみなさなければならないだろうからである。しかし、この規定の正しさはなおきわめて疑問である。ところが、自然の諸々の美の現実性は経験には明らかである。177頁」

 自然がもたらす美と人工的な美。自然はともかく、人口の美をアプリオリに規定することは可能なのか。趣味判断を産む経験としての技術。その技術のもととなる力能はアプリオリではないだろうか。


第三九節 感覚の伝達可能性について

〈反省の快〉

「これに反して、美しいものについての快は、享受の快でも合法則的活動活動の快でもなく、また諸理念にしたがう理性的観照の快でもなく、たんなる反省の快である。・・・まさにこの理由から、趣味によって判断するひとは(そのひとがこれを意識して誤りを犯さず、実質を形式と取り違え、魅力を美と取り違えることさえなければ)、主観的合目的性を、すなわち客観についての自分の満足を他のあらゆるひとにあえて要求してもよいのであり、また自分の感情を普遍的に伝達可能なものとして、しかも諸概念を介さず想定してもよいのである。179頁」

 美しいものについての快を享受の快や自発的活動の快と区別できるだろうか。快は快でしかないのでないか。それが、あらゆるひとに伝達可能であるから、美しいものの快だと、あとから知るだけか。そもそも、あらゆるひとに伝達できたなど、わかりようもない。


第四〇節 一種の共通感覚といての趣味について

〈自分の反省のうちで〉

「しかし共通感覚は、ある共通の感覚の理念、すなわち、次のような判定能力の理念と理解されなければならない。この判定能力は、自分の反省のうちで他のあらゆるひとの表象の仕方を思想のうちで(アプリオリに)顧慮する。・・・このことはまた、ひとが表象のうちで実質、すなわち感覚であるものをできるかぎり除去し、もっぱら自分の表象ないし表象状態の形式的諸特有性に注意を払うことによって実現される。180−181頁」

 美しいものについての快はあるものに接しておのずから湧くのではなかった。それには、反省が前提となるのだ。反省から得られる快。山行記録もそうかも知れない。


第四一節 美しいものに対する経験的関心について

〈ある客観の現存在についての満足〉

「ところで、この他なる(趣味が結合する)ものは、ある経験的なもの、すなわち人間の本性に固有な傾向性でありうるか、それとも理性によってアプリオリに規定されうる意志の特性としてのある知性的なものでありうる。この両者はいずれも、ある客観の現存在についての満足を含むことができるのであり、こうしてすでにそれだけで、なんらの関心も顧慮せず満足を与えたものについての関心に根拠を置くことができるのである。184頁」

 われわれに美的満足をあたえるものはなんだろうか。それがわかれば、その快を共有することができるだろう。その美的満足(ある客観の現存在についての満足)は、ある経験的なものであるか、ある知性的なものである。ある経験的なものは、認識を成立させるものであり、ある知性的なものは欲求を成立させるものだろう。ここに、判断力批判の最終目標が見え隠れする。


第四二節 美しいものに対する知性的関心について

[道徳的感情と美感的判断の類縁性]

〈自然とわれわれの満足〉

「言い換えれば、理性は、自然が少なくともある暗示を示すか、それともある示唆を与えることに対しても関心をもつのである。すなわち自然は、その諸産物があらゆる関心に依存しないわれわれの満足(この満足をわれわれはアプリオリにあらゆるひとに対して法則として認識するが、その満足を証明に基礎づけることはできない)と合法則的に合致すると想定すべきなんらかの根拠をみずからのうちに含んでいるという暗示ないし示唆である。189−190頁」

 われわれの生まれもった満足が一致する諸産物を自然は持っていると、理性はそのように関心を示す。その理性の関心はまた道徳的感情を伴うのだ。


〈自然の産物の現存在に対する直接的、知性的関心〉

「しかしながら、第一に、自然の美しいものに対するこの直接的関心は、現実には普通よくみられることではなく、考え方が善いものへとすでに成熟しているひとか、あるいはこの成熟に優れて敏感なひとにのみ固有である。190頁」 

 道徳的感情と美感的判断の類縁性は経験的には頷けるが、その根拠となると、カントは判明で精緻な熟慮はなくてもよいと言う。ただ、いづれも自然の産物の現存在に対する直接的、知性的関心を示す。


第四三節 技術一般について

[選択意志による産出が技術である]


第四十四節 美術について

[美の学は存在しない。あるのもが美しいとみなされるのは証明根拠による]


第四五節 美術は同時に自然であるようにみえるかぎりでの技術である

[自然は同時に技術のようにみえた場合に美しい]


第四六節 美術は天才の技術である

[天才とは、生得的な心の素質であり、自然はこの素質によって技術に規則を与える]


第四七節 天才についての上述の説明の解明と確証

[天才の所業からの産物から抽き出された規則]


第四八節 天才と趣味との関係について

[美しい対象を判定するのは趣味。美しい対象を産出するのは天才]


第四九節 天才を形成する心の諸能力について

[精神が欠けた産物。魂を活気づける原理は美感的諸理念の描出する能力。]

〈美感的理念〉

「しかし、私が美感的理念によって理解するのは、多くを考えさせるきっかけを与えるような構想力のそうした表象である。それでもこの表象には、規定された思想は、すなわち概念は適合することができず、したがってどのような言葉もこの表象に完全に到達することはできず、この表象を理解させることはできないのである。」

 相手の心を射るようなものを作りたい。その原理が美感的諸理念だ。そこでは、構想力は経験の限界を超えて、自然を凌駕するものに素材を加工する。


〈別の自然〉

「すなわち、構想力(産出的認識能力としての)は、これに現実の自然が与える素材から、いわば別の自然を創造することにはきわめて強力である。われわれは、経験がわれわれに対してあまりにも日常的となる場合、構想力を相手に楽しみ、おそらく経験を造り変えることも行う。208頁」

 日常に飽きて非日常に憧れる。または、逆に非日常が続き、元の日常を懐かしむ。いずれも、飽きっぽいのは人間の常だ。そんな時には、別の自然を楽しみたい。それには構成力をフル回転して、経験を塗り替えよう。


第五〇節 美術の産物における趣味と天才との結合について

[趣味は天才を躾ける]


第五一節 諸美術の区分について

[話す際の伝達法(言葉・態度・音調(音節、身ぶり、抑揚))


第五二節 同一の産物における諸美術の結合について

〈歌劇〉

「また、こうした結合では美術はなおいっそう技巧的となる。しかし、いっそう美しくなるかどうかは(このように多様な異なる種類の満足が交錯しあうのであるから)、これらの場合の幾つかについては疑うことができる。」

 詩と音楽と絵画の結合した歌劇、これは形式として鑑賞するには複雑すぎて、魅力的な快感となってしまいかねない。つまり、気晴らし


第五三節 諸美術相互の美感的価値の比較

[美観的価値は心を開化し、認識のための諸能力を拡張させること。]

〈構想力による反復〉

「しかし音楽の諸印象は、すっかり消滅するか、それとも、心ならずも構想力によって反復される場合には、われわれにとっては快適であるよりも、むしろ煩わしいものとなる。229頁



 美感的価値は魅力の享受ではなく、心の開化である。カントは上級認識諸能力のみやびとも言っている。みやびなものは構想力によって反復されても、うるさくはない。


第五四節 注解

〈交替〉

「そして、たとえわれわれは対象そのものについて関心をもたず、少なくとも情動の程度に釣り合う関心をもたないとしても、この楽しみは情動にまで高まることがある。」

 無関心のひとを楽しませる。マーケティング理論のようだ。そのポイントは交替。交替は戯れであって、感覚、判断、情動のゆらぎが身体的な楽しみを招く。肩透かし、落ち、動揺が無関心な人の横隔膜を揺すぶる。


第二編 美感的判断力の弁証論

第五五節

[理屈を言い立てる判断力、美感的判断力の諸原理の二律背反]


第五六節 趣味の二律背反の提示

[各人はそれぞれ固有の趣味をもつ・趣味については論議されることができない・趣味については論争されることができる。定立:趣味判断は諸概念に基づいていない(議論を許さない)、反定立:趣味判断は諸概念に基づいている(論争はできる)]


第五七節 趣味の二律背反の解決

[趣味判断はなんらかの概念と関係しなければならない]

〈表明不可能性と証示不可能性〉

「ところで、美感的理念は構想力の表明不可能性と呼ばれ、理性理念は理性の証示不可能な概念と呼ばれることができる、と私は思う。246頁」

 美感的理念は概念を超え、理性理念は経験を超え出る。美感的理念は理性理念が証示できないものを表現する。美感的理念は理性理念そのものだ。


第五八節 美感的判断力の唯一の原理としての、自然および芸術の合目的性の観念論について

[心の諸力の関係における内的合目的性を知覚する機会を自然は含んでいる]

〈結晶化〉

「それは、静止状態にある液体の一部分(時にはたんに熱物質)が発散ないし分離したため残り部分が凝固した際に、一定の形態ないし組織(模様や肌理)を得る形成であり、この形態ないし組織は、物質の種別的差異にしたがって異なるとしても、しかし同一の物質では精確に同一であるような形成である。254頁」

 液体から固体に結晶化するのは飛躍である。あの美しい雪の結晶も大気がもつ機会だ。われわれの美感的判断力の原理が自然の中にあるとしたら、それは液体か固体か、実在は定まらない。


第五九節 人倫性の象徴としての美について

[概念の二つの描出。図式は例示的、象徴は類比的]

〈類比的なもの〉

「われわれは建築物や樹木を荘厳である、華麗であると呼び、あるいは広野を微笑んでいる、嬉々としていると呼ぶ。色彩すらも、無垢である、謙虚である、思いやりがある、と呼ばれる。なぜなら、これらの色彩は、道徳的判断によって引き起こされた心の状態の意識とある類比的なものを含む諸感覚を喚起するからである。趣味は、いわば感官の魅力から習慣的な道徳的関心への移行を、あまりに強引な飛躍をせず可能にする。これは、趣味が構成力の自由のうちでも構成力を悟性に対して合目的的に規定されうるものとして表象し、諸感官の諸対象についてすら、感官の魅力がなくても自由な満足を見出すように〔われわれを〕教えることによるのである。262−263頁」

 趣味からわれわれが教わることは、溢れる構成力と奔放な悟性が一致すること、魅力的でないものにも満足を得ること。その学びから人倫性が養われるのだ。


第六〇節 付録 趣味の方法論について

[やってみせる]

〈芸術の理想〉

「〔第一に〕弟子の構想力をある与えられた概念に適応するように呼び覚ますことである。〔第二に〕理念は美感的であるという理由で、概念そのものが到達しない理念に対する表現は不十分であると注意させることである。そして〔第三に〕、鋭い批判を行うことである。264頁」

 理想は客観的な主観性を言うことか。


第六一節 自然の客観的合目的性について

[偶然・統制的原理・反省的判断力、統一・構成的原理・規定的判断力]

〈nexus finalisとnexus effectivus〉

「というのも、たとえばある鳥の構造、つまり鳥の骨のなかの空洞、運動のための鳥の翼の位置、舵をとるための尾の位置などを列挙するとき、これらすべては、ある特殊な種類の原因性、すなわち諸目的の原因性(nexus finalis 目的結合)の手をさらに借りずに、自然におけるたんなる因果結合 nexus effectivus にしたがうだけではきわめて偶然的である、と言うことができるからである。カント全集9 10頁」

 運動するため、舵をとるため、とその手段を並べてみても、鳥の本性はつかめない。そうではなくて、われわれが、鳥の翼の位置や尾の位置がその目的にかなっていると認識することから始めよう。


第六二節 実質的な客観的合目的性から区別された、たんに形式的な客観的合目的性について

[客観的合目的性:唯一の原理にしたがって多くの問題を解決する根拠をそのものが持っている。実質的ではなく形式的:合目的性の根底に目的を必要としない(目的論を必要としない)。]

〈庭園の中の樹木、花壇、通路〉

「但し、その場合、この合目的性の根底にある目的をおく必要はなく、あるいはこの合目的性のなんらかの他の根拠を置く必要はないのである。この点に関しては事情は、次のような場合すなわち、私がある種の限界内に囲まれた私の外の諸物の総括のうちでは、たとえばあの庭園の中の樹木、花壇、通路その他の秩序や規則正しさを見出すような場合とは異なっている。16頁」

 庭園の中には実質的な、さまざまなものが、ある目的に沿って、空間を占めている。その形は魅力的ではなるが、アプリオリではない。


第六三節 内的合目的性から区別された自然の相対的合目的性について

[自然の相対的合目的性:結果を他への使用のための手段とみなす(有用性、有益性)、偶然的な合目的性。自然の目的:実質的な客観的合目的性]

〈寒冷地での生活〉

「ここには、ある目的に対する自然のきわめて多くの関係が讃嘆に値するほど集まっており、またこの目的とは、グリーンランド人、ラップランド人、サモエード人、ヤクート人などである。しかし、そもそも人間はなぜこのような寒冷地で生活しなければならないのかという理由は、分からないのである。23頁」

 人間に対する有用性は相対的であり、偶然的である。もっと絶対的な判断はないのだろうか。


第六四節 自然目的としての諸物の特有な性格について

[ある物が目的としてのみ可能であるためには自然諸法則ではなく理性の諸概念が前提となる。自然目的:自然産物を目的としても判定する。]

〈地上絵〉

「誰かが、その人には人間が住んでいないように見える土地に、ある幾何学的図形たとえば生六角形が砂の上に描かれているのを見つけたとするならば、その人の反省は、この図形の概念を得ようと努めながら、漠然としてではあれ、理性を介してこの概念を産出する原理の統一に気づくであろう。24頁」

 自然界の不思議、地上絵。崇高なものに対する感情と同じく、構想力の拡大が理性的理念と合致するだろう。

第六五節 自然目的としての諸物は有機的存在者である

[作用原因の連結(nexus effectivus)は同時に目的原因(nexus finalis)による結果として判定できる。]

 nexus effectivusは悟性による、つねに下方に向かう連結である。だから、連結の結果ある統一的な存在者(有機的存在者)が想定できる。また、nexus finalisは理性概念による、双方向の産生により、全体を産生する。この全体は有機的存在者でもある。

〈有機的存在者〉

「そうではなくて、有機的存在者は自分のうちに形成する力を所有しており、しかもこの形成する力は、この力は、この力をもたない諸物質に有機的存在者が分かち与える(諸物質を有機化する)ような力である。」

 有機化された産物とは部分は他の諸部分を産み出す存在者であって、道具ではない。


第六六節 有機的存在者における内的合目的性の判定の原理について

[内的合目的性の判定の原理は自然の有機的産物の原理:自然の有機的産物とは、そのうちではすべてのものが目的であり、相互に手段でもあるようなものであること。]

〈機械的な諸法則にしたがう凝固物〉

「たとえば、ある動物の体では多くの部分はたんに機械的な諸法則にしたがう凝固物として(皮膚、骨、毛髪のような)把握されうることが、いつでもあるだろう。それでも、この凝固物に調達して、この物質をそのように変形し、形成し、それにふさわしい場所に沈殿させる原因は、つねに目的論的に判定されなければならない。34−34頁」

 生命とは何か、その答えを導くのは目的論だ。


第六七節 諸目的の体系として自然一般を目的論的に判定する原理について

[諸目的の体系に自然の産物は属する]

〈全自然という理念〉

「しかし、この自然目的という概念はいまや、諸目的の規則にしたがう一つの体系としての全自然という理念へと必然的に導き、そこで自然のすべてのメカニズムはこの理念のもとに(すくなくともその理念を手がかりとして自然現象を試してみるために)、理性の諸原理にしたがって従属させられなければならない。37頁」

 駱駝や牛や馬や犬などは人間の使用のためという目的はあるだろうが、やはり、もっと究極的な目的が必要となる。そこで、体系という理念が生まれる。


第六八節 自然科学の内的原理としての目的論の原理について

〈自然の研究〉

「この(目的論を自然科学の固有部門としない)ように行われるのは、われわれがあるものを自然と同様に、少なくとも〔自然の〕諸法則との類似性からみてみずから産み出すことができるように、われわれの観察や実験にしたがわせることができるものだけに自然のメカニズムにしたがう自然の研究を強く繋ぎ留めておくためである。というのも、完全に洞察されるのは、諸概念にしたがってひとがみずから作りだすことができるもの、また完成することができるものだけにかぎられるからである。44頁」

 その後、人類は原子力を持つようになってしまった。内的な合目的性は外的な合目的性に従うべきだろう。((カントが外的な合目的性を内的な合目的性に完全に従属させているというのは不正確である。だか、その反対は、ある観点からすれば正しい。ジル・ドゥルーズ カントの批判哲学 國分功一郎訳 ちくま学芸文庫167頁)を参考のこと)


第二章 目的論的判断力の弁証法 

第六九節 判断力の二律背反とはなにか

[規定的判断力には二律背反はない。反省的判断力は自分自身を原理とするから、自分のそして必然的な諸格率をもつゆえに、必然的格率の二律背反が生じる。]

〈認識諸能力の合目的的な使用〉
「ところで、諸原理を欠く認識諸能力の使用は許されないのであるから、このような場合に、反省的判断力は自分自身を原理として使用しなければならないであろう。この原理は客観的ではなく、またこの包摂の意図にとって十分な客観の認識根拠をあてがうことはできないのであるから、この原理は、たんに認識諸能力の合目的的な使用のための主観的な原理として、すなわち、ある種の諸対象を反省するための主観的原理として役立つべきである。45−46頁」
 認識諸能力(感性、構成力、悟性、理性)の合目的な使用、すなわち、能力の一致は反省的判断力によって初めてなされる。そして、この一致が曖昧であった概念を確固としたものとするだろう。

第七〇節 この二律背反の提示

[第一の格率:機械的法則にしたがう。第二の格率:目的原因の法則にしたがう。]
〈きわめて大きな多様性と異種性〉
「しかし、経験によってのみわれわれに知られうる特殊な諸法則に関して言えば、これらの法則のうちにはきわめて大きな多様性と異種性とがありうるので、判断力は、自然の諸現象のうちに法則を探求し探索するだけでも、自分自身に対して原理として役立たなければならない。47頁」
 自然、例えば気象現象はまったく予測不能であるならば、われわれは滅亡していただろう。自然のなかの一員として生き抜くためには、自然の諸事象を連結する原理を見出さねばなるまい。しかし、役立つのは自分自身だけなのだ。そんな自分自身の行動原理(格率)がメカニズムと合目的性だ。おのずと、身に付いている行動原理にどれにしたがってもいいが、その原理はお互い矛盾している。

第七一節 上述の二律背反を解決するための準備

[有機的な自然産物はどのようして産出されるのだろうか。根源的原因性、建築術的悟性の存在について理性はまったく知識がない。]
〈感性界を超え出て超絶的なものに耽り〉
「第二の規定的判断力の場合には、この原則は、ある客観的原理であろう。理性はこの客観的原理を指定し、また判断力は、この客観的原理をみずから規定しつつこの原理に服しなければならないであろう。しかしこの場合には、判断力は、感性界を超え出て超絶的なものに耽り、おそらく迷わされるであろう。50−51頁」
 自然界の多様な物はどうして産出したのだろうか。ある一般的なものを根拠にして判断できないのだろうか。こうした規定的判断力はどうしても、ある実在性を認めてしまう。だか、そんな実在性は感性界を超えなければ考えられない。カントはここで断念した。しかし、超感性的な、あるものを想定したのはカントではなかったか。超感性的なものに実在性を与えてはならないのか。


第七二節 自然の合目的性に関するさまざまな体系について

[自然目的の観念論(自然の合目的性は無意図的:自然の産出能力は自然のメカニズムと同一)。自然目的の実在論(自然の合目的性は意図的:自然の産出能力はある特殊な原因性)]


第七三節 上述の諸体系はいずれも言い立てることをなしとげていない

[観念論(エピクロス、スピノザ)、実在論(物心論、有神論)]


第七四節 自然の技巧という概念を独断的に扱うことが不可能である理由は、自然目的が説明不可能であることにある

[自然の技巧とは自然の手続き(原因性)のこと。すなわち、ある目的のための産物を見つけること]

[ある概念の独断的な取り扱い方(規定的判断力)、ある概念の批判的な取り扱い方(反省的判断力)]

[自然目的としての物の概念:経験的に条件づけられた概念、客観的実在性は与えられていない概念。]


第七五節 自然の客観的合目的性の概念は、反省的判断力に対する理性の批判的原理である

[自然の諸物の産出は意図にしたがう。世界の可能性は意図的に作用する原因を思い浮かべることでしか理解できないことを、目的論は証明する。]


第七六節 注解

[諸物の可能性と現実性とを区別することは必然的である。可能的なものとは概念(対象の可能性)と感性的直観(あるものを与える)。悟性が直観的とすれば、悟性の対象は現実的なものだけ。可能的なものは考える能力、現実的なものは物自体。]

第七七節 自然目的の概念をわれわれに可能にさせる人間悟性の特有性について
[自然の諸物と判断力との合致の可能性:われわれの悟性にとって、諸目的という結合手段]
〈直覚的悟性〉
「それゆえ、われわれは、われわれの論弁的悟性にふさわしいように、全体の可能性が諸部分に依存していると表象しようとするのではなく、直覚的(原型的)悟性に応じて、諸部分の可能性が(これらの性状と結合からみて)全体に依存しているとするならば、このことは、われわれの悟性のまさに同一の特有性にしたがえば、全体が諸部分の連結の可能性の根拠を含む(これは論弁的な認識の仕方では矛盾するであろう)というようにおこりうるのではなく、むしろ全体の表象が、この全体の形式の可能性の根拠と、全体に必要な諸部分の連結の可能性の根拠とを含むというようにのみ起こりうるのである。(77−78頁)」
 全体の表象を悟性が担うならば、部分から積み上げてというふうに、論弁的悟性はやるだろう。つまり、積み上げ方はカテゴリーに従うわけだ。それでは、全体は部分に従ってしまう。そこで、部分が全体に依存しているようにするために、一工夫しよう。つまり、全体の形式の可能性を目的として仮定するのだ。その形式に部分が連結してはまり込む。当然、この連結の原理は全体が持つ目的にあるわけだ。

第七八節 自然の技巧のうちで物質の普遍的メカニズムの原理と目的論的原理とを合一することについて
[産物は自然のメカニズムではなく、意図的作用する原因だけから想定できる]
〈意図的に作用する原因〉
「すなわち、人間悟性の性状にしたがえば、自然における有機的存在者の可能性のためには、意図的に作用する原因以外の原因は想定されることができず、この自然の諸産物の説明のために自然のたんなるメカニズムはけっして十分ではありえない、という原則である。86頁」
 物質の普遍的メカニズムの原理と目的論的原理との合一は超感性的でのみ可能である。われわれの悟性では意図に従うように仕向けられている。そうして、あとからメカニズムがついてくる。

付録 目的論的判断力の方法論
第七九節 目的論は自然論に属するものとして扱われなければならないのかどうか
[哲学的な学(理論的部門・実践的部門)。経験の対象となる理論的部門(自然論・神学)]
 目的論は理説ではなく、判断力の批判にだけ属し、自然論の手続きに影響する。
第八〇節 自然目的としてのある物の説明ではメカニズムの原理は目的論的原理のもとに必然的に従属することについて
[汎神論、スピノザ主義]
〈物質の客観的=合目的的な諸形式〉
「すなわち、物質の客観的=合目的的な諸形式に対してこれらの可能性のある最上の根拠を求めるが、この根拠にある悟性を認めようとしないひとびととは、それでも好んで世界全体をすべて包含する唯一の実体とする(汎神論)か、それとも(これは汎神論のいっそう明確な説明にすぎないが)唯一の単純実体に内属する多数の規定の総括とする(スピノザ主義)のである。96頁」
 自然のなかには、動物の骨格など、形式の類比があるから、その根拠を求めようとするという。しかし、類比は差異が前提となる。どうして、差異が産生するかという視点で、汎神論やスピノザ主義を見直したい。

第八一節 自然産物としての自然目的の説明ではメカニズムが目的論的原理に連れ添うことについて
[機会原因論・予定論]
〈ある特殊な形式に自然を制限する〉
「われわれの理性は、二つのまったく異なった種類の原因性、すなわち自然の普遍的合目的性における自然の原因性と、自然がそれだけではそのための根拠をまったく含んでいないある特殊な形式に自然を制限するある理念とを合一するという可能性を理解することはない。97頁」
 ある特殊な形式に制限することが機会的諸法則の特性らしい。カオスからある秩序をもたらす、エントロピー減少の法則。そこに、目的はありそうだが、生成は無垢だ。

第八二節 有機的存在者の外的関係における目的論的体系について
[外的合目的性、究極目的(現存目的がその存在者自身にある)、最終目的]
〈諸現象を統一するある種の諸法則〉
「そして最後に、自然の(われわれの外およびわれわれの内の)超感性的原理のうちには、自然の可能性を表象するあの両方の仕方が十分に合一しうる可能性が存するであろう〔ことを知ったのである〕。それというのも、目的原因にしたがう表象の仕方は、われわれの理性使用の主観的条件にすぎないからであり、その際、この表象の仕方は、対象をたんに現象として判定しようと望むのではなく、これらの現象そのものを、その諸原理とともにあの超感性的基体へと関係づけることを要求するのである。この要求は、諸目的によらなければ(理性もまた超感性的である諸目的をもつ)表象できないこうした諸現象を統一するある種の諸法則が可能であることを見出すためである。107頁」
 対象を現象と判定するだけでなく、この対象を感覚からすり抜けるものとしてつかみたい。

第八三節 目的論的体系としての自然の最終目的について
[幸福、開化(有能性・熟練)。有能性の条件:規定、選択(訓育の開化)。]
〈形式的な主観的条件〉
「それゆえ、自然における人間のすべての目的のうちには、ただ形式的な主観的条件だけが残る。110頁」
 形式であって実質ではない。実質は「人間が自分自身の現存に究極目的を置き、究極目的と合致するということ(同頁)」を妨げる。究極目的は現存目的がその存在者自身にある目的だから、実質からは得られない。形式とは開化であり、趣味だ。

第八四節 世界の現存在、言い換えれば創造そのものの究極目的について
[道徳的存在者としての人間は最高目的を自分自身のうちにもっている]
〈創造の究極目的〉
「ところで、世界の諸物は、これらの現存からみて依存的な存在者として、諸目的にしたがって働く最上の原因を必要とするならば、人間こそ創造の究極目的である。というのも、人間が存在しなければ、お互いに従属する諸目的の連鎖は完璧には基礎づけられないだろうからである。116頁」
 基礎づけるとはどういう意味だろうか。文脈からすると、道徳的、理性的なものが立法する(法則を定める)ことか。世界が目的の連鎖から創造されているとすれば、人間は創造そのものの究極目的と言えるだろう。

第八五節 自然神学について
[自然神学:自然の諸目的から自然の最上の原因とその諸特性とを推論。神学の可能性は自然そのものがそのために現存する目的を問うことに依拠する。]
〈スピノザ主義〉
「それというのも、かれらは、合目的的に結合しあう多くの実体の統一をもち出すことがきわめて困難なので、この統一を一つの実体への因果的依存性とする代わりに、一つの実体における内属の統一へと変化させたからである。122頁」
 多様なものを統一するのは困難だから、もともと多様なものは一つのものに属していると考えたほうが簡単だ。この考えは「自然のたんなるメカニズムという唯一の原理(同頁)」なのだが、その考えからは「多数の実例のうちで提示する不調和(123頁)」に対処できないとカントは言う。しかし、スピノザならば、この不調和は実体のなかで、消滅することになると言うだろう。実体にはある本性(コナトゥス)があるから。

第八六節 倫理神学について
〈恐怖ははじめに神々(鬼神)を生み出す〉
「恐怖ははじめに神々(鬼神)を生み出すことはできたが、しかし理性は、自分の道徳的諸原理を介してはじめて神についての概念を生み出すことができたのである(普通にみられるように、ひとびとが自然の目的論にきわめて無知であるために、あるいはまた、この点について互いに矛盾する諸現象を十分に確証された原理によって調停することが困難であるために、大いに懐疑的であった場合ですらそうであった)。132頁」
 経験したことから、恐怖を感じたり、懐疑的になったとき、つまり、困ったときの神頼みをするものだ。そんな時、「およそ人間はなんのために現存するのか(126頁)」と問うてみよう。すれば、そんな神々ではどうにもならないことがわかるだろう。

第八七節 神の現存在の道徳的証明について
〈価値についての理解〉
「というのも(このように誰でも判断するように)、もしも世界がまったく生命のない存在者から成り立つか、それとも一部は生命があるがしかし理性のない存在者から成り立つとすれば、こうした世界の現存在は、どのような価値ももたないであろうからである。なぜなら、世界のうちには、価値について少しでも理解しているような存在者は現存しないだろうからである。135頁」
 理性がなければ存在に価値はない。なぜなら、理性だけが価値を理解できるから。価値は理解されなければ存在に価値はないのだろうか。あることにだけ価値はあるように思うが。なぜなら、あることが生成であり、価値創造であるからだ。

第八八節 道徳的証明の妥当性の制限
〈機動力 vis locomotive〉
「たとえば、こころの諸表象のうちに原因が存する身体の諸運動が実際に生じるのであるから、われわれは、とりわけ機動力 vis locomotive 〔という特性〕を心に付与する。だからといって、われわれが動かす諸力を知る唯一の仕方を(すなわち、牽引、圧力、衝突によって、したがって延長した存在者をつねに前提する運動によって)心に付与しようとするわけではないのである。147頁」
 延長、すなわち拡がりをともなわない、あるものを想定して、自然の諸物との区別を許したとしても、そして、人は考えるだけで、認識することができない制限があるとしても、それでは、なにも考えたことにならないのではないか。ある変様には拡がりと精神は属性として、明らかに認められるもので、この変様のない諸物に原因性を求めても無駄だろう。

第八九節 道徳的論証の効用について
〈超感性的なものに関しての理論〉
「すなわち、超感性的なものに関してはなにひとつ理論的に(もっぱらたんに否定的である以外には)規定されることはけっしてできないと想定する〔原理〕か、それともわれわれの理性は、まだ未開発の宝庫をそれ自身のうちに含んでおり、この宝庫は、われわれとわれわれの子孫のために、測り知れないほど広大な拡張的知識のために保存されていると想定する〔原理〕か、そのいずれである。151頁」
 超感性的なものは感性的でないから、認識できない。だから、理論的に超感性的なものに関して規定できない。しかし、それでも、日常のなかで、超感性的なものは幅をきかし、われわれの行動を左右する。だから、道徳的論証の効用が期待できるわけだが、そううまくいくだろうか。理性を制限して済ませるだろうか。

第九〇節 神の現存在の目的論的証明のうちで真とみなすことの種類について
〈可能性は完全に確実でなければならない〉
「あるものが仮説として、与えられた現象の可能性を説明するために役立つべきものであれば、すくなくともこの可能性は完全に確実でなければならない。160頁」
 ひとはそれは可能性だけどね、と言って、期待させたり、不安がらせる。だが、立ち止まって、その可能性を想定する根拠を問うているだろうか。可能であるものが思考されるためには条件があるものだ。この先を真っすぐに行けば水場にであう可能性がある、と言う時、あなたは山のなかにいる。

第九一節 実践的信仰によって真とみなすことの種類について
〈経験のうちで実在性の証明〉
「神および魂(この不死に関する)という両概念の規定は、次のような述語によってのみ行われうる。それは、たとえそれ自身が超感性的根拠に基づいてのみ可能であるとしても、それでも経験のうちでその実在性を証明しなければならないような諸述語である。170頁」
 神や魂でなくても、超感性的根拠に基づいてのみ可能なものはあるだろう。たとえば、鉄を吸い付ける磁石。磁力を光のように感じることはできない。しかし、磁石に吸い寄せられる鉄を観察する経験によって、その実在は確かだ。

目的論に対する一般的注解
〈神の偏在〉
「しかし、私が、世界秩序をきっかけとして超感性的存在者の原因性を最上の悟性の原因性として考えるという機会だけでなく、また上述の〔原因性の〕概念のこの規定によってこの存在者を認識する機会をもつ場合には、おそらくもっとうまくできるだろう。・・・あるいはわれわれは、神の偏在をあらゆる場所における現存在として考える権能をもっている。185頁」
 認識の機会を持つこと。それは、どんなきっかけでもいいけれど、そうして、神の偏在までゆきつくこともあるだろう。そして、いちばんは世界秩序をきっかけとすること。そうなれば、認識は合目的性をもらい受けるだろう。


*頁数は岩波版全集による。
*下線部を追記した。

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