ハイデッガー「存在と時間」を読む(45)

 こんばんは、HITOIKIです。今日も雨。それも本降りです。冬の雨は雪よりも冷たく感じます。炬燵で蜜柑がいいですね。この分では週末は荒れそうで、どの山に登れるやら。思案中です。それでは、ハイデッガー「存在と時間」の45回目です。今日から第二編で、僕が読んでいるちくま学芸文庫も下になりました。因みに引用の頁数は原本のおおよその頁数です。まず、良心についてです。本文を見て行きましょう。

第二編 現存在と時間性
第四五節 現存在の準備的基礎分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的解釈の課題

「われわれの実存論的分析は日常性から着手したのであったが、それが全たき現存在をーすなわち、この存在者をその「始め」からその「終末」にいたるまでの姿でー主題提示的な現象学的視野のうちに確実に収めたということを、われわれはいつ、そしてどのようにしてたしかめていたであろうか。 233頁」
「現存在は死において終末に達し、このことによって全体として存在すると考えられる。234頁」
「本来的実存というようなものは、存在的な立場から現存在に押しつけたり、存在論的な立場で発明されたりすることのできないものである。そうだとすれば、明らかに、現存在自身がおのれの存在において、自己の本来的実存の可能性と様相とを呈示するはずである。このような本来的な存在可能の証しを立てるものは、良心である。234頁」

 本来性は全体性と言いかえられるとしても、日常のなかでは、どうしても未なものが死です。全体性を目指すには死を取り込まねばなりません。そして、また、良心を持とうという意志のなかに本来性があるとハイデッカーは言っています。良心で私が思い出すのがニーチェの「道徳の系譜」の一節です。

「責任という格外の特権についての誇らかな自覚、この稀有な自由の意識、自己と命運とを支配するこの権力の意識は、彼の心の至深の奥底まで降り沈んでしまって、本能とまで、支配的な本能とまでなっているのだ。—もし彼にしてこれを、この支配的な本能を、一つの言葉で名づける必要に迫られるとすれば、これを彼は何と呼ぶだろうか? 疑いの余地もなく、この主権者的な人間はこれを自己の良心と呼ぶ。ちくま学芸文庫 427頁」

 ニーチェが支配的な本能と言っている「良心」をハイデッカーは本来性としています。二人の関連はとても興味をそそります。

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