ドゥルーズ「意味の論理学」を読む(12) 第16セリー

 明日で孫たちが帰ることになりました。でも、桃の節句にはまた会えます。むやみに泣くこともなくなって、母親も少し楽になったようです。指しゃぶりに夢中のようです。ところで、昼の散歩の時にはラジオを聴いているんですが、原田知世の時をかける少女が流れて来て、その歌声の幼い感じがとても良かったです。疲れが吹き飛びました。では、ドゥルーズ「意味の論理学」の13回目です。今回は発生について、ライプニッツ哲学です。個体はどのようにして造られるのか。神の創造ではないようです。では、本文を見てみましよう。


第16セリー 存在論的な静的発生

  • 個体の発生:ライプニッツ
〈個別的モナド〉

「ライプニッツが正しく述べていることだが、個別的モナドは、自己の身体と別の物体の関係に応じて世界を表現するのであり、自己の身体の部分間の関係に応じて先の関係そのものを表現するのである。したがって、個体は常に収束円としての世界の中に存在し、世界は、世界を占めたり満たしたりする個体の周囲においてのみ、形成されうるし思考されうる。199頁」

 世界はエントロピー保存の法則が示すように発生はしない。発生できるのは個体だけである。現在の間だけという限定付きではあるが。

  • 世界の「共可能性」の条件、あるいは、セリーの収束性の条件(連続性)
〈収束性と発散性〉

「というのは、表現的モナドへの述語の内属は、まず、表現される世界の共可能性を前提として、世界の共可能性の方は、収束性と発散性の規則による純粋特異性の配分を前提とするからである。201頁」

 二つが収束するならば、容易に共存するだろう。しかし、そこに発散性は入り込むと世界は別ものになる。だから、述語は動詞なのだ。

  • 出来事の述語への変換
〈順序〉

「しかし、その上で、ライプニッツの理論の一定の相に抗して、述語の分析の順序は、共存の順序や継続の順序であって、そこには論理的な階層も一般性の特徴もないと言わねばならない。203頁」

 発生、実現、表現の段階を追う。まだ、第一水準だ。表現は述語に現れる。述語が一般性を帯る前の段階はまだ順序しかない。そして、その順序が個体を表現する。

 「このバラは、このバラの赤さを持つのでなければ、赤であることはない。この赤は、この赤のこの色を持つのでなければ、色であることはない。203頁」

 一般性への過程には、この、この、という個体の属性があるだけだ。

  • 個体から人格へ
〈共不可能性〉

「ところが、認識主管としての〈自我〉が現出するのは、何ものかが、共可能などころか共不可能な世界の中で、収束するどころか発散するセリーを横切って、同定されるときである。204頁」

 第一水準から第二水準へと発生は進む。自我の誕生である。ところで、共不可能とはどういうことか。

 「対象=xが現出するのは、発散するセリーの間で、共不可能性な世界の間で、何ものかが同定されるときだけである。この対象=xを思考する〈自我〉が世界的個体を超越すると同時に、この対象=xも個体化された世界を超越するのであり、それ以後、この対象=xが、世界に対して、設立される主観の新たな価値に面する新たな価値を与えるのである。205頁」

 〈自我〉発生の核心がこの共不可能性なのだが、ここでは収束するセリーはないようで、ただ発散するセリーばかりだ。収束は現在のみを、発散は過去と未来を駆け巡るだろう。

  • 人格、特性とクラス
〈良識と常識〉

「第一の段階に従えば、「良識」の原理、あるいは、差異を既に固定化する定住的な組織の原理が形成されるのがわかる。第二の段階に従えば、同定の機能である「常識」の原理が形成されるのがわかる。209頁」

「良識」と「常識」は意味産出の第三次組織であったが、個体から人格への発生過程も同様である。

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