ドゥルーズ「意味の論理学」を読む(32) 付録 ⅠーⅡ

 県境までは林道が続く。車を停めて歩き出して、10メートルくらいで除雪は終わりで、そこからは表面だけ固まった雪が残る。県境までの林道の脇には至る所で、伐採木が綺麗に切り出されて、整然と積み上げられていて、その上に屋根のように雪が被さる。曲がりくねった林道を道なりに歩くのが好きだ。でも、それでは、目的の頂には時間が足りない。登りはショートカットして、下りはのんびりと歩こう。
 では、ドゥルーズ「意味の論理学」の32回目。今回はエピクロス派について、ルクレティウスの著作から。重要な箇所をまず指摘しよう。「しかし、出来事は、事物の本性を破壊せずに到来したり進行したりするものを、したがって、事物の秩序と共立可能な運動の程度を表現する。176頁」。ここから、スコラ派とも違いが明確となる。では、本文を見ていこう。


Ⅱ ルクレティウスとシニュラクル

  • 雑多なもの
〈観点〉

「すなわち世界そのものの雑多性が、三つの観点の下で推論される。すなわち、世界は無数にあるが、しばしば異なる種からなり、ときに相似る種からなり、常に異質な元素で合成される、と。158頁」

 雑多なものを論じるとき、その論点はもはや、雑多とは言えない。点は雑多ではなく、一つである。

  • 自然と全体不可能性な総和
〈全体化〉

「すなわち、雑多の生産としての自然は、無限の総和以外ではありえないということ、言いかえるなら、自己自身の元素を全体化しない総和以外ではありえないということである。158頁」
「相似ていたり異なっていたりする分割不可能なものの加算としての自然は、たしかに総和であるが、全体ではない。159頁」

 全体的と言ったときに、一つずつの事物は無視されはしないか。総和なら個々のものはそのままだ。

  • 〈存在〉・〈一〉・〈全〉の批判
〈反自然主義〉

「反自然主義の哲学者は「存在は無である」と語るのを好むばかりで、存在者と空虚があると認めないし、また、空虚の中には単純な存在者があって、合成された存在者の中には空虚があるとは認めないのである。160頁」

 桝目には空虚は付きものだ。まず、人工的な桝目を作っておいて、それは言語であっても、合成された存在者でもいいが、そんな空虚な人工物から自然を問い直そう。

  • 因果原理の異なる相
方法の二つの姿形
⑴原子は、思考されるべきものであり、思考されるしかないものである。
〔原子は思考されるしかないということは、感覚対象ではないということ〕
⑵原子の総和は無限である。
〔原子は自己を全体化しない〕

クリナメンと時間理論
⑶原子は落下しながら遭遇する。
〔クリナメンは、原子運動の方角の原初的な決定である。原子は「思考と同じ速さで」動く〕
⑷それゆえに、クリナメンが示すのは、偶発性でも未決定性でもない。
〔自然の思考は原因を全体に統一しない〕
⑸原子には、雑多な大きさと雑多な姿形がある。
〔原子の雑多な大きさと姿形は無限ではないが、同じ大きさや同じ姿形の原子は無限にある〕
⑹任意の原子が任意の原子と遭遇して組合わさるのではない。
〔組み合わせに適する姿形でなければ崩壊する〕
⑺各組合わせは有限であるが、無限の組合わせある。しかし、いかなる組合わせも、唯一の種類の原子で形成されることはない。
〔雑多な原子の組合わせは異質性を示し、その組合わせは配分されることで類似性を持つ〕
⑻雑多の力能と雑多の生産の力能、そしてまた、雑多の再生産の力能。
〔各環境が再生産を促す〕

「クリナメンは、一種のコナトゥス(conatus)である。163頁」

 あるもののコナトゥスは自己保存の力能と言える。原子はまず運動して別の原子に遭遇し、うまく組み合わされば元素となり、それが配分され環境を形成し、再生産される。このプロセスの最初がクリナメンである。まさにコナトゥスといえよう。

  • 真の無限と偽の無限
〈倫理〉

「真に無限であるのは、原子の総和、空虚、原子の総和と空虚、同じ姿形と背丈の原子の数、組合わせの数、われわれの世界と相似たり異なったりする世界の数である。無限でないものは、物体の部分、原子の部分、原子の背丈と姿形、とりわけ、世界の組合わせや内部−世界での組合わせのすべてである。168頁」

 簡単に言えばものの数は無限であるが、そのものの種類には限りあるということ。種類に限りがあれば、類似性がみられることになり、そこから倫理が形成される。

  • 魂のトラブル
〈快楽〉

「魂のトラブルは二つの要素で合成される。すなわち、身体から来る幻想、快楽に無限の容量があるとする幻想であり、次いで、魂の中に投射される第二の幻想、魂そのものが無限に持続するとする幻想であって、その幻想の故に、われわれは、無防備に、無限にありうる死後の苦痛という観念に引き渡されてしまう。169頁」

 快楽は身体のある部分とすれば、前段の論理からすれば、それは無限ではない。しかし、あたかも、無限のように快楽は偽装される。なぜなら、同一の快楽がいくらあってもそれは快楽ではないのだから。

  • 深層からの流出、表面からのシニュラクル、神学的・夢幻的・官能的な幻想
〈空気の流れ〉
「いずれにせよ、流出とシミュラクルは、原子の合成体として捉えられるわけではなく、対象の上や中に隔たりをもって認知される形質として捉えられることは明らかである。この隔たりを与えるのが、流出とシニュラクルによって追い立てられて感覚器官を通過していく空気の流れである。170頁」

 流れるには時間がかかる。もし、原子それ自体が流れて思考されるならば、その思考の流れも短いながら時間は経過する。しかも、その思考時間は原子の運動のコナトゥスであるクリナメンより長いとされた(クリナメンは運動のきっかけのようなものであるから、隔たりの移動時間と同一の思考時間はクリナメンより長い)。それと類比して感覚に要する時間は流出時間より長くなる。そのことから、感覚を覚えた時には、流出は停まっているかのようである。よって、隔たりを埋めるように対象が帰属されていると感覚はみなしてしまう。

  • 時間と方法の統一性
〈出来事〉

「時間は運動に対して語られる。175頁」
「たぶん、これらすべての意味において、運動は、属性や特性(結合(conjuncta))に対立して、「出来事」(eventa、エピクロスの言う症候(symptoms))を構成する。175頁」
「しかし、出来事は、事物の本性を破壊せずに到来したり進行したりするものを、したがって、事物の秩序と共立可能な運動の程度を表現する。176頁」

 ルクレティウスにおいて方法は類比と移行であった(161−162頁)。まず、移行が時間と関連するのは理解できよう。類比は思考と感覚の類比であったが、この類比の架け橋も時間となる。思考にクリナメン以上の時間がかかるなら、感覚にも深層からの流出以上の時間がかかることになる。すると、時間は運動に対して語られるわけであるから、原子の運動に関連した思考や感覚が想定されよう。ここで、出来事は原子の運動を表現するものとされた。この隔たりの時間の考え方が、事物と出来事の関連を導き、スコラ派との明らかな違いを示す。

  • 偽の無限の起源と魂のトラブル
〈意志と欲望〉

「そして、クリナメンが思考に自由について偽の考え方を吹き込むのと同様に、シニュラクルは感性に意志と欲望について偽の感情を吹き込む。176頁」

 クリナメンについて以前の論点を見てみよう。

「クリナメンが示すのは、まったく別のことで、原子の法則(lex atmi)、言いかえるなら、原因や原因系列の還元[=減少]不可能な多数性、原因を全体に統一することの不可能性である。」

 この原因を全体に統一することの不可能性から思考の自由が吹き込まれたのだろう。同様に結果である感性にも統一性は求められず、意志と欲望が湧いて来るのだろう。

  • 自然主義と神話批判
〈思考と感覚〉

「自然主義は、ルクレティウスによるなら、そのあらゆる要素が一回で合成されることのない無限な総和についての思考であり、また、逆に、そのまま相互に付加されることのない有限な合成体についての感覚である。179頁」

 感覚は有限であるならば、つまりはすべては感じ取れるということ。非感覚的な世界などあってはならない。無限なのは思考だけだ。

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