ライプニッツ「形而上学叙説」を読んで(3)17ー25

 今日は昼にモンベルに行った。というのは、孫に会いに行った帰りに、何の店か分からずに入ったのが、アウトドアの専門店で、結構賑わっていた。そこで、550mlのチタン製のクッカーを買った。テント泊で湯を沸かしたり、ラーメンを煮たりしてみたい。そのための調理用の杓文字を買いにきたわけだ。耐熱性のポリプロピレン製のを購入。これで、簡単な煮炊きも出来そうだ。
 それでは、ライプニッツ「形而上学叙説」の3回目。自然界での力と目的因について。物だけに見える世界にも精神があるのだろうか。では、本文を見て行こう。

17 下位の準則つまり自然法則の例。ここで示されるのは、デカルト主義者たちやその他多くのひとびとの主張に反して、神がつねに保存するのは同じ力であって、同じ運動量ではないことである。

〈運動量と運動エネルギー〉

「さらに私は、一リーヴル[一リーヴルは五〇〇グラム]の重さの物体Aが四トワーズ[一トワーズは一九四九ミリメートル]の高さCDへと上がるためには、四リーブルの物体Bが一トワーズの高さEFへと上がるのと同じだけの力を必要とする、と「仮定する」。47頁」

 上げるために要する時間によって要する力は異なる。だからこの仮定は間違いだ。

18 物体現象を説明しようとすれば、延長から分離された形而上学的考察に依拠しなければならないが、この点を判断するために、運動量と力との区別がとくに重要である。

〈力〉

「ところで、こうした力は大きさ、形、運動とは異なるなにものかであって、ここから物体について理解されるすべてのことは、なにも現代人が確信するような延長にあるとはいえない、と判断できる。50頁」

 たとえば、色や熱も力となる。

19 自然学における目的因の有効性。

〈目〉

「そこで私は、敬虔さとさらに真の哲学への思いをいだくひとびとには、目はものをみるためにつくられているのではなく、目があるからものがみえるのだ、などと語るあのいわゆる強い精神をもつ者たちのことばに耳を傾けないように、と勧めている。52頁」

 6節の作図の視点をここでも重視している。

20 あまりに唯物論的な哲学者に対する、プラトンの著作におけるソクラテスの注目すべき一節。

〈生滅〉

「そうゆうわけで、なぜものは生滅し、存続するのかを説明しようとする者ならば、万物の完全性にふさわしいものを探求せざるをえない、と考えた。55頁」

 完全であるが故に生滅する。それは、全体のための部分の役割ではなく、完全なるものの本質がそうであるからなのか。存続することは生滅することであり、それは完全性を分有する。

21 もし力学の規則がもっぱら幾何学だけに依拠して、形而上学を欠いていたならば、現象はまったくべつのものになるだろう。

〈目的因〉

「私は、自然の結果のおおくは二重に証明されうるとさえみなしている。ひとつは、作用因の考察によってであるが、それとは別に目的因が考慮されることによる。」

 目的によって結果を証明する。意志が無ければ目的はわからないだろう。自然の意志とはなんだろうか。

22 自然を機械論的に説明するひとびとと、また非物体的本性に依拠するひとびとの双方を納得させるために、目的因と作用因というふたつの道を和解させること。

〈道具〉

「最善策は両者の考えを結びつけることだろう。というのは、卑近な比喩をとりあげるのを容赦していただきたいが、私は、職人がどんな計画をもってその機械部品をつくるのかをはっきりさせ、さらにその部品をつくるのに用いた道具を解明することで、その職人をみとめるのだし、称賛もする。59頁」

 目的因と作用因を和解させるには、道具にこだわること。
 
23 非物質的実体にたちもどって、神がどのようにして精神の悟性に作用するのか、またひとは思考しているものをつねにもつのかどうか、この点を説明する。

〈神の証明〉

「というのも、私たちはあるものを推論するとき、このものについての観念をもっていると思いこみ、これを基盤に古代、現代の哲学者は神の証明をしてきた。62頁」

 思考しているものをつねにもつのかどうか。思考とは、もつとは、ふたつの意味を問い直そう。

24 明晰あるいは曖昧な認識、判明あるいは混雑した認識、十全な認識と直観的な認識あるいは推論的認識とはどのようなものか。名目的、事象的、原因的、本質的定義について。

〈円〉

「しかし、可能性の証明が[経験的ではなく]アプリオリになされる場合、定義は「原因的」でもある。65頁」

 訳註が参考になる。

「円とは一方の端が静止したまま平面上を動く直線によって描かれる図形であるというとき、私たちは円の原因と事象性を認識している 102頁」

 確か、これはスピノザの著作でも読んだことがある。定義は作図で深まる。

25 私たちの認識が観想に結びつくのはどのような場合か。

〈千角形〉

「私が千とか千角形といったものを考えるとき、千は百の十倍であるといいながら十や百がなんであるのかを苦心して考えないのと同様に、千角形の観念を観想してはいないのである。66頁」

 千はともかくとして、千角形は観想できないだろう。千のある多角形と認識はできる。しかし、イメージはできない。イメージするには構想力が必要だ。

51978406094_1998f22065_c.jpg

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック